資料〜元寇


(1)なぜ元寇が行われたか?

『元史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライに こう進言した


『世子 諶云、「吾父子、相継朝覲、特蒙恩、宥小邦人民、得保。遺? 感戴之言不可。
既 諶 連年入覲、毎荷皇恩、区々之忠、益切致効。惟彼日本、未蒙聖化。
故発詔、使継糴軍容。戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、庶幾勉尽心力、小助王師。」』


【訳】「世子諶は言った。『私ども父子は相次いで天子の前に参内し、ひときわ御恩をこうむり、私どものような小国の人民をなだめていただきまして、国を保つことを得ました。目もくらむばかりで、戴いた事への言葉もありません。すでに私は連年して参内しております。つねに陛下のご恩を受け、ささやかな忠義をあらわしたいと切に思っているところでございます。 思いますに、あの日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。今こそ戦艦兵糧を使うべきです。わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております。』と。」


朝鮮の歴史書、高麗史
http://kyujanggak.snu.ac.kr/info/info01_1.jsp


高麗史 二十一にあるPDFファイル
高麗史の1272年(元宗十三年)三月の条の記を見れば、世子 諶(しん、後の忠烈王)が元の世祖に東征を請うている。








惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。
儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。


【訳】思いますれば、あの日本は、未だに元皇帝様の徳による導きを受けていません。それ故に詔を発して、軍容を整えて、戦艦兵糧 を用いましょう。もしも、この事を臣である私に、お任せくだされば、心力を尽くし励み、そして王師を、微力ではありますが、お助けしたいです。






高麗は日本侵略を元に強要されていません。
明らかに高麗の忠烈王自身が元の皇帝フビライ に日本への遠征を願いでています。


元寇を起こしたのはモンゴルではなく、高麗でした。

  • 元軍の人員構成

元軍と言いながら、実は高麗兵主体の軍であったことが判る。モンゴル兵は指揮官のみである。
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub203.htm


文永の役(1274年)

 船舶数 900隻(高麗が建造)
兵 力
高麗人12700人
漢 人
女真
宋 人
モンゴル人 30人
総 数 25000人





弘安の役(1281年)
 東路軍船舶数 4400隻(高麗が建造)
東路軍兵力
高麗人25000人
漢 人
女真
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人150人
総 数50000人
江南軍兵力
南宋 100000人



( ´∀`)「あらためて,日本にとって昔から癌であると痛感させられますね。」


人気blogランキングへ (*゜д゜)