マンガ嫌韓流のここがデタラメ 第9話 竹島=独島の知られざる歴史
(1) 第9話 竹島=独島の知られざる歴史(ENJOY Korea)
『マンガ嫌韓流』(以下『嫌韓流』)において、竹島=独島を日本領とする根拠が たった二点しか記述されていないのは特筆に値する。それはわずか二コマで説明されている。 その分量といい内容といい、マンガと吐いてあまりにも説明不足である。残りのマンガは、 すべて韓国に対する非難にあてられ、 さらに付録の竹島=独島問題を解説する下条正男氏の 文章にいたっては、竹島=独島を日本領とする根拠がほとんど示されていない。 「名は体を表す」の格言通り、『嫌韓流』は題名にふさわしく、史実研究よりも嫌韓をあお ることに重点をおいているようだ。 こうした姿勢では、竹島=独島問題をきちんと理解することは困難である。『嫌韓流』が 書いた内容がいかに我田引水的であるかを 日本史関係と韓国史関係に分けて具体的に見るこ とにする。 【日本史の資料から】江戸時代、現在の竹島=独島は松島、そして欝陵島は竹島と呼ばれた。それに従いここでは 島の呼び名を松島、竹島とする。 当時の松島(現在の竹島=独島)はその名前に反して松の木はおろか、樹木は一本もなかった。 それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、松島が竹島の付属島、あるいは一対であるとの考えか らである。 この事実は重要で、のちに詳述するが、そのことに触れる前に、まず江戸時代の歴史をみるこ とにする。 『嫌韓流』は松島を日本領とする江戸時代の根拠を204ページのマンガで表現した。 そこでは「幕府は竹島(旧名松島)については日本の領土と考えて渡航を禁じてはいなかった」 と書いているが、これは正しくない。 江戸幕府は松島を日本領と考えなかったばかりか、当時は松島の存在自体をほとんど知らなか った。 実際、元禄時代に竹島(現在の欝陵島)をめぐる挑戦との領土交渉「竹島一件」が起きたとき、 幕府は実情把握のために鳥取藩に「竹島の他に両国の他に付属する島はあるか?」との質問を 出したほどであった。 文中の両国とは鳥取藩が支配する因幡国・伯耆国を指す。幕府は、異例の渡航申請があった竹島 は知っていても、松島をほとんど知らなかったのである。 それも無理のないことだ。幕府の地図に、竹島や松島は記載されていなかったからである。当時の 幕府の地図は各藩が作成した国絵図が中心だったが、 竹島に関係の深い鳥取藩自体、松島・竹島を自藩領ではないと確信していたので、鳥取藩や幕 府の地図に松島・竹島がないのは当然である。 しかも、松島は竹島とちがって渡海許可書などもないので、幕府が松島をよく知らなかったのも 当然である。 竹島が鳥取藩に知られるようになったのは、1617年頃だった。米子の回船問屋である大谷家 の船が漂流中に偶然見つけたのだ。 朝鮮政府が和冦対策のため空島対策をしいていたので無人島だったが、同島は自然資源が豊富な 宝の島だった。 そこで、大谷・村川両家は鳥取藩を通じて幕府から渡海許可を得て、竹島で数十年間にわたり 漁労などを行った。 そうした経緯から鳥取藩は、竹島や付属の島は幕府所管であり、自藩領ではないと考えていた。 したがって、鳥取藩が幕府の質問書に対して 「松島・竹島その他、両国へ付属する島はない」と回答したのも自然な成り行きだった。 松島・竹島が日本領ではないとする考えは、両島に一番近い隠岐島も同様だった。1667年、 隠州の郡代である斉籐豊仙は、 隠岐島の見聞録である『隠州視聴合紀』を表したが、そのなかで日本の西北は「此州」すなわち 「隠州」が限界であると記した。 その際、同書は松島・竹島を隠州に含めなかったのである。 松島・竹島をよく知っていた斉籐が、日本の西北の限界を松島・竹島ではないと考えていた 事実は重要だ。 斉籐は、大谷・村川両家の竹島渡航船を異国へ渡る朱印船のように考え、村川船について 「村川氏、官より主因を賜り大舶を磯竹島に致す」と『隠州視聴合紀』に記録した。 磯竹島は竹島を指す。斉籐は松島・竹島を日本の地ではなく、異国と考えていたようである。 『隠州視聴合紀』でついては、日韓両政府間でその解釈をめぐり論争になったことがある。 日韓両政府は1953年から数年間にわたって竹島=独島の領有権論争を書簡により行った。 その時、日本政府は『隠州視聴合紀』を引用して松島・竹島が「日本の西北部の限界」 だったことを主張した。 これは同書に書かれた「此州」を「この島」すなわち松島・竹島であると曲解したことによる。 これに対して、韓国政府は「此州」は「隠州」と解釈すべきだと主張して対立した。 日本政府の解釈が無理であることは『隠州視聴合紀』を底本にして増補した『隠岐国古記』 の記述でも明らかだ。 同書は「日本の乾地此国を以て限りとする」と書き、「隠岐国」を日本の乾、 すなわち西北の限りとした。 同様の指摘は、最近では名古屋大学の池内敏教授により綿密に論証された。 話は元禄時代の質問書にもどるが、鳥取藩からの回答で「竹島は因幡・伯耆の付属ではない」 「松島・竹島その他、両国へ付属する島はない」とされたことが決め手となり、 幕府はついに竹島の放棄を決定し、それを朝鮮国に伝えて「竹島一件」は落着した。 朝鮮への書簡では松島にふれなかったが、幕府は領主のいない松島も日本領ではないと 判断したことは明らかである。 江戸時代、領主のいない日本の領土はあり得ない。 こうした歴史を反映して、江戸時代中期を代表する儒学者・長久保赤水の地図 「新刻日本輿地図路程全図」などでは諸国の色分けに際し、 松島・竹島は朝鮮半島と同様に無色に書かれた。ただし、両島の周辺海域は、 両島が一対であることが判る島に薄く着色された。 同時に、松島・竹島に関する説明文でも一対表現が強調して書かれた。
- 明治政府は竹島=独島を日本の領土外と宣言
「版図の取捨は国家の重大事」という内務省の見解にもかかわらず、 その決定を官報に公示しなかった、わずかに島根県が竹島=独島を 新発見地であるかのように装って、島の位置のみを明示し、島根県布告第四十号で、 「竹島と称し、自今本件所属隠岐島司の所管と定められる」 そこには旧島名の記述もなければ、領土編入という言葉すらなかった。 領土編入が太政官指令や国際法に反するだけに、内密裡に処理されたようである。 また、竹島=独島は「韓国領地の疑いがある」と内務省が判断していたにもかかわらず、 かつて小笠原諸島編入の場合に行ったような関係国との協議は行われなかった。 同島の場合、日本政府は関係国の米・英両国と何度も協議した上、日本の同島管治を欧米十二ヶ刻に 通告したのである。これは国際法を意識した措置であった。 『嫌韓流』は、竹島=独島の編入について「国際法の要求する諸条件は完全に充足され」(242ページ)、 と書き、日本領根拠の第二点目にしたが、これも妥当ではない。 竹島=独島のように朝鮮領と認識している他国の領土をこっそり自国へ編入することは国際法で認めら れておらず、もちろん違法である。 それを熟知している日本政府は、竹島=独島をなんと「無主地」と強弁して領土編入の閣議決定を したのである。 明治政府の「無主地」という判断は成り立たないが、その判断は今の外務省が主張する「固有領土」説 と明らかに矛盾する。 さしもの『嫌韓流』も外務省の「固有領土」説は無理筋と考えたのか、それに全く触れなかったのは、 注目にあたいする。 『嫌韓流』は竹島=独島の領土編入時に「韓国は主権国家だったにも関わらず何の動きもなかったんだ」 (248ページ)と書くが、これは当然である。 国家レベルでこっそりと行われたので、韓国が領土編入を汁のは困難であった。 韓国が編入の事実を知ったのは翌年であり、韓国はすでに日本の保護国にされて外交権を失っており、 日本に攻撃できる状況になかった。 1946年、竹島=独島は連合国最高指令SCAPIN677号により日本の支配から暫定的に切り離され、 韓国を統治していた米軍政庁の管轄下におかれた。 同時に、竹島=独島を含んだ海域にGHQによりマッカーサーラインが引かれ、漁業資源保護のために 日本船舶の接近が禁止された。 こうした決定に際して参考にされたのが、日本陸軍参謀部陸地測量部の作成になる「地図区域一覧図」 である。その地図で、 竹島=独島は明瞭に朝鮮区域に区分けされていた。 戦時中は陸軍の陸地測量部すら島根県告示を知らなかったのか、竹島=独島を島根県ではなく朝鮮区域 に区分けしていたのである。 1948年、韓国は独立して米軍政庁の統治を受けつぎ、竹島=独島を慶尚北道の管轄下におき、同島に 学術調査団を派遣した。 もし、島根県の告示が国際法上で有効だと主張するなら、この韓国の措置も国際法上において有効 だという論法になる。 しかも、この韓国の措置について日本政府はなんらクレームをつけなかった。マンガの国際法に 関する主張はブーメランのように戻って日本を直撃することになる。 1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は念願の独立を回復した。 これに関連して『嫌韓流』は「竹島は・・・講和条約では日本領と決まっていた」(249ページ)と書くが、 そのような事実はない。 当初のアメリカおよびイギリスの講和条約草案では、竹島=独島は韓国領と明記された。 アメリカは途中で日本のロビー活動を受け入れ、竹島=独島を日本領とした。 ところが、やがて日本領案の文言も削除され、最終的には講和条約で竹島=独島は一言半句も記述されず、 あいまいなままに残されたのである。 その理由はこれまでナゾだったが、最近、それが明らかになった。 アメリカの韓国問題研究者であるロブモ氏により発見された駐日アメリカ大使館の秘密資料「リアンコールト 岩と韓国人」には、 「日本はリアンコールト岩(竹島=独島)に対する日本の領有権は理由のあることとしている。それに 韓国が異議を唱えているのは明白な根拠にもとづくものである」 「その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部であった」などと記されている。 アメリカは日韓のはざまで、竹島=独島問題に明確な結論を出すことを避けたのである。 講和条約で竹島=独島が一言も記述されなかった結果、講和条約の非被調印国である韓国は竹島=独島 に対する支配権をそのまま維持することとなった。 一般に講和条約において条約の非調印国である第三国の既得権益は侵されないというのが国際法の慣習 である。 そのような既得権益の延長がいわゆる「李承晩ライン」韓国のいう「平和線」である。 『嫌韓流』はこれについて「勝手に引かれた線」とかいているが、塀湾線の協会は、じつは日本の 受け入れたGHQのマッカーサーラインをほぼ引き継いだものである。 以前よりマッカーサーラインを犯す日本漁船は後を絶たず、たとえば1951年4月の一ヶ月だけで、 違反で拿捕された日本漁船は27席、抑留された漁船員は330人に達した。 もしマッカーサーラインがなくなれば、日本漁船の乱獲による漁業資源の枯渇は明らかであった。 韓国政府は講和条約後もマッカーサーラインを実質的に維持する措置として、代わりの「平和線」 を設けた。それは今日の海洋200海里時代を先取りしたアメリカの遺産であった。
- 愛国者、安龍福(あんよんぼく)の大胆な行動
- 韓国の領有権主張の根拠は官撰史書が中心
「(蔚陵島の中峰から)西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、 東側を眺めると海の中に一つの島が見えるが、はるかに辰(東南東)方向に 位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里(120Km) に過ぎない」張漢相は欝陵島からはるか東に存在する島を確認したのだが、これは朝鮮王朝の記録『世宗実録』の記述 を裏付ける物である。 同書の地理志(1454年)は、武陵島と于山島は天気が清明ならお互いに望み見ることができると記した。 武陵島は欝陵島を指すが、そこから天気が清明な時にだけ望める島は現在の竹島=独島以外にない。 従って、地理志における于山島は竹島=独島を指すのである。 地理志の記述はその後の官撰史書に大きな影響を与えた。 国家が編纂した百科全書風類書『東国文献備考』(1770年)には、「輿地誌が云うには欝陵、于山は 皆于山国の地。于山とはすなわち倭の言うところの松島」と記され、 于山島(松島)に対する朝鮮王朝の領有意識が明確に示された。 こうした領有意識や、張漢相が竹島=独島を確認したこと、あるいは安龍福の当局における供述などが 元になって、 日本でいう松島は朝鮮領の子山島(于山島)であるという認識が朝鮮で強固になった。 その認識はその後の官撰史書の『萬機要覧』(1808年)、『増補文献備考』(1908年)などにくり返し 記述され、国家としての竹島=独島に対する領有意識が継続して維持された。 ただし、官撰史書以外の雑多な史料では竹島=独島に対する認識が必ずしも正しくない図書もあるが、 領有権問題において官撰史書の認識が優先することはいうまでもない。
- 加茂川と石島、勅令四一号
最後に、第9話を要約する。 江戸時代の「竹島一件」をきっかけに、日本と朝鮮はそれぞれ松島・竹島に対する領有判断を迫られた。 朝鮮は両島に対する領有意識を再確認したのに対し、日本は両島を朝鮮領と考えるようになった。 それをふまえて日本では明治政府が両島を版図外と宣言した事実は重大である。 それにもかかわらず、日露戦争の最中、日本政府は戦争という「時局なればこそ」竹島=独島を 「無主地」と強弁して日本に編入したのである。 そのような帝国主義的方法により略取した領土は、当然、本来の持ち主が所有すべきである。 戦後、日本がポツダム宣言を通じて受け入れたカイロ宣言には「日本国は、また暴力および貪欲により 日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐されるべし」と記された。 日本はこの原則にしたがい、再び明治政府のように竹島=独島を版図外にすることを宣言すべきである。 ※おことわり この稿での資料の漢文は読み下し文に、また原文のカタカナは平仮名にした。また引用文献などは 省略したので、文献や資料、各論の詳細は下記ホームページ「半月城通信」をご参照いただきたい。 「半月城通信」竹島=独島:http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#dokto 半月城のメールアドレス:half-moon@muj.biglobe.ne.jp
( ´∀`)「ENJOY Koreaの論破されまくりの韓国人の意見の集積ですか?w 」